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川合村(かわいむら)に掲げられていた高札(こうさつ)


はじめに

 高札というのは、法令などを書き、人がよく見る場所に建てて、法令を伝達するためのものです。高札は、室町時代頃から始まり、江戸時代に、幕府や各大名などによって最も盛んに用いられたといわれています。
 江戸時代の亀山領内では、大庄屋(おおじょうや)が編さんした『九々五集(くくごしゅう)』や街道や宿場の絵図に記されていますので、かつて高札が掲げられていた場所や内容がわかります。
 しかし、川合村で掲げられていた高札、かつて川合村庄屋の家であった渡辺家で今日まで伝えられていたことはほとんど知られていませんでした。
 伝存を知るきっかけは、平成23年に亀山市歴史博物館が調査依頼を受けたことによります。このときの調査結果は、川合町自治会が編さんされた『川合のあゆみ(町史)』(平成23年)に写真とともに掲載されています。
 江戸時代に川合村で掲げられていた高札の実物を、どうぞご覧ください。
 最後になりましたが、御所蔵高札の展示と出品に対し、御理解と御協力をいただきました渡辺家の皆様に厚く御礼申上げます。


展示品目録
1.徒党(ととう)強訴(ごうそ)逃散(ちょうさん)の禁止 高札(第二札)(渡辺家所蔵)


 翻刻文(Internet Explorerのみ縦書き表記になります。)

  定
何事によらすよろし
からさる事に、大勢申合
候を、ととうととなへ、
ととうして、しいて
ねかひ事くわたつるを
こうそといひ、あるひハ、
申合せ、居町・居村を
たちのき候を、てうさんと
申す、堅く御法度たり、(もし)
右類之儀これあらハ、早々
其筋の役所へ申出へし、
御ほふひ下さるへく事、

 慶応四年三月 太政官

右之通、堅可相守者也(かたくあいまもるべきものなり)
       安濃津県

2.五倫(ごりん)の道 高札(第一札)(渡辺家所蔵)


 翻刻文(Internet Explorerのみ縦書き表記になります。)

   定
一人たるもの五倫之道を
 正しくすへき事、
鰥寡(かんか)・孤独・廃疾(はいしつ)
 ものを(あわれ)むへき事、
一人を殺し、家を焼き、
 財を盗む等之悪業、
 あるましく事、

 慶応四年三月 太政官

右之通、堅可相守者也(かたくあいまもるべきものなり)
      安濃津県


3.キリスト教の禁止 高札(第三札)(渡辺家所蔵)


 翻刻文(Internet Explorerのみ縦書き表記になります。)

一切支丹宗門之儀者、
 是迄御制禁之通、固く
 可相守事、
一邪宗門之儀者、固く
 禁止候事、

 慶応四年三月 太政官

右之通、堅可相守者也(かたくあいまもるべきものなり)
       安濃津県



五箇条の御誓文〜明治政府の新しい方針

 慶応4年(1868)3月14日、明治天皇が神々に対し五箇条の内容を誓約するかたちで、明治政府の新しい方針である「五箇条の御誓文」を京都御所の紫宸殿で公布しました。

五傍の掲示のあらまし

 慶応4年(1868)3月15日、明治政府は、徳川幕府の高札の撤去を命じ、これに替えて、太政官の名前で5枚の高札(五傍の掲示)を掲示する命令を出しました。
 5枚の高札は、「定」ではじまる文書が3枚で、これは「定三札」と呼ばれ、永年掲示とされました。
 内容は、五倫の道を説いたもの(第一札)、徒党・強訴・逃散の禁止を説いたもの(第二札)、キリスト教の禁止を説いたもの(第三札)です。
残り2枚は、「覚」ではじまる文書で、外国人に危害を加えることの禁止(第四札)、士民の本国脱走の禁止(第五札)などを記しています。これは永年掲示ではありません。
 慶応4年(1868)10月4日、五傍の掲示内容は、諸外国の抗議により、第五札を高札から取り除く命令を出しました。
 明治6年(1873)2月24日には、これらの内容は全ての国民が熟知したので、およそ30日間は必要なところに掲示し、高札の文面は「一般熟知」のことなので、政策方針はそのままとしながら、高札は撤去することを命じます。

参考『国史大辞典』(吉川弘文館)

渡辺家に遺された「定三札」

 展示しています3枚の高札は、五倫の道を説いた第一札、徒党・強訴・逃散の禁止を説いた第二札、キリスト教の禁止を説いた第三札です。いずれも、川合村(川合町)の高札場に掲げられていたものとして、渡辺家で保存されてきた実物です。
 「覚」ではじまる外国人に危害を加えることの禁止を説いた第四札や、士民の本国脱走の禁止を説いた第五札が、当時川合村に掲げられていたかどうかは、現物が伝えられていないため、定かではありません。
 ちなみに、これまで亀山市内で確認されていた五傍の掲示の高札は、関まちなみ資料館(関町中町)に展示されている徒党・強訴・逃散の禁止を説いた第二札だけでした。

関まちなみ資料館に展示されている高札について

 関まちなみ資料館(関町中町)に展示されている高札は、徒党・強訴・逃散の禁止を説いた第二札です。
 渡辺家所蔵の高札と比較すると、同じ点もありますが、ちがいもあります。
 「定」そのものの差出(発給者)は「太政官」、発給年月は「慶応四年三月」というように、同じ内容です。
 しかし、高札そのものの発給者は、渡辺家所蔵の高札が「安濃津県」であるのに対し、まちなみ資料館の高札は「度会県」となっています。
 亀山市域では、明治二年(1869)八月に、それまで大津県(いまの滋賀県)管轄であった坂下村(関町坂下)が、度会県管轄になっています。
 したがって、関まちなみ資料館の高札の伝来は不詳ですが、この頃に、坂下村で掲げられていた可能性が考えられます。


江戸時代の亀山領内の高札

 江戸時代の亀山領内川合村の高札場は、「享和三年亀山領内東海道分間絵図」(原本伊藤家所蔵・亀山市指定文化財)によれば、東海道沿いの家並みの北端に描かれています。
 また高札場は、地域の距離をあらわすときのポイントにもなっています。亀山領内の大庄屋打田権四郎昌克が編さんした「九々五集」(第六巻)によると、亀山宿内の西町・東町を除く各村では、亀山城大手門前の高札場まで何里あるかが記されています。
 例えば、川合村では、「亀山御札場江廿九町」とあり、新所村(関町新所)では、「亀山御札場迄関御札場@一里半」と記されています。

【江戸時代の高札】

 江戸時代の高札は、「定」の条文の発給者は、江戸幕府の奉行です。そして、この条文を領内に伝達するのは、亀山領内の場合は亀山城主です。つまり、高札そのものの発給者は、亀山城主ということです。
 宝永七年(1710)に亀山城主の交替がありました。それまでの板倉近江守重治から松平和泉守乗邑に替わっています。
 松平乗邑が亀山在城中の記録「亀山拾冊」(西尾市資料館寄託松明院文書)では、松平乗邑が亀山城を受け取った当日に、普請奉行に対し、亀山城大手前と関町の高札を「建直候」や、それ以外の亀山領内の村々にある「切支丹・火付改」の高札も「追々建直候」という指示が出ています(「亀山拾冊之内 御普請方諸事覚」)。
 この指示には、前もって「御高札認置候事」という但書があることから、建て直しの指示は、高札場の建て直しというよりも、高札の追加ではないかとみられます。
 松平乗邑が亀山城主となった翌年、正徳元年(1711)五月、徳川幕府から出された「定」が高札として5枚出されました。
 内容は「忠孝札」「毒薬札」「御伝馬札」「駄賃札」「火付改札」「切支丹札」です(「亀山拾冊之内 御普請方諸事覚」)。
 これらの発給者は江戸幕府を表す「奉行」ですが、高札そのものの発給者は、「依仰私領中下知如件 和泉守」というように、松平乗邑の官職である「和泉守」で出されています。
 「和泉守」を発給者とするのは、亀山城主が、松平和泉守乗邑だからです。
 松平乗邑は、享保二年(1717)に再び板倉近江守重治と城主の交替をします。そうすると、「和泉守」の部分は、「近江守」に書き換えられるのでしょうか。しかし、この点が実ははっきりしていません。
 ただ、この点について、少し示唆となる史料があります。それは、大田南畝の旅行記である「蜀山人改元紀行 中」(国立国会図書館所蔵写本)の中で、東海道を京都へ向かう途次、亀山領内に入るところで次のように記しています。

(前略)此あたり石川主殿頭の領する所とミへて、制札に令条をかき、末のかたりへちいさき木の札をうち付て、主殿とかけり、依仰私領中下知如件、といへることはを令条の末にかきそへたり、これより上つかたの私領の制札ミなかくのことし(後略)

 これによれば、高札の条文の後に、「依仰私領中下知如件」の文言に「主殿」(亀山城主石川家のこと)と署名した小さい木の札を打ち付けていたとあります。
 このことから、高札そのものの発給者の表し方を推測すると、「主殿」と書いた木の札を打ち付けていたということから、その木の札の下には、もしかするとその高札が出されたときの城主の名前があり、以後、城主が交替するたびに、木札を打ち替えることで、その時の城主の署名を替えていたのかも知れません。

【明治時代の高札】

 このように高札そのものの発給者について注目しながら、五傍の掲示の高札をみると、渡辺家所蔵の定三札はいずれも明治政府が発給したことを表す「太政官」となっています。そして、年号は慶応四年(1868)三月です。
 しかし、高札そのものの発給者は「安濃津県」となっています。
安濃津県ができたのは、明治四年(1871)十一月で3年間のズレがあります。
 このことを江戸時代の高札と考え合わせてみると、川合村に掲げられていた五傍の掲示の高札は、高札そのものの発給者は、明治政府が定めた「亀山藩」→「亀山県」→「安濃津県」と替わっていた可能性が考えられます。
 こう考えると、渡辺家所蔵の高札は、3枚とも「安濃津県」の表記がぎこちない部分があります。とくに「県」を表す「縣」の文字が「安濃津」に比べて小さく表記されていたり、この部分の表面を削ったような痕がみられます。
 想像の域はでませんが、かつて記されていた「亀山藩」や「亀山県」の表記を削ったスペースに「安濃津県」を書いたため、窮屈な表記になったと考えられないでしょうか。
 江戸時代の高札にしろ、明治時代の高札にしろ、まだまだ謎の部分があることは確かです。



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