亀山市立亀山東小学校6年生社会科出前授業
「江戸時代の亀山での人々のくらし」
平成25年10月4日(金)亀山市立亀山東小学校6年生へ出前授業に行きました。
1学年3クラス73名の子どもたちは、音楽室で合同授業をしました。
江戸時代の「身分と人々のくらし」の学習を終え、身近な亀山での人々のくらしはどうだったのか学ぶ授業でした。資料から見る人々のくらしが、教科書に載っていることと同じかどうか考えながら学習してほしいと話し、学習を始めました。
<武士のくらし>
武士とその家族が住んでいた家は持ち家ではなかったことや畑を耕して大根・麦・菜種などを作っていたこと、味噌は買わずに家で作っていたこと、相撲や狂言の見物が禁止されていたことなど思っていたのとは違う武士の暮らしぶりを知り、驚いていました。 実物資料の |
<土地に番号をつけて管理したよ。> |
<町人のくらし>
教科書では農民についてのおふれ書きを学習しましたが、町人にもおきてがあったことを知らせました。不審な人に馬や
また、普段の生活では、着る物・履き物・髪飾りや傘なども細かく決められていたこと、婚礼の招待者や料理までも決められていたことを初めて知った子どもたちでした。
さらに
<これが蛇の目傘です> |
<西町・東町にはいろんな店があったよ> |
<農民のくらし>
江戸時代、亀山領内には86ヶ村ありました。亀山領内でも、農民のくらしについてきまりがありました。文化9年4月に作られた「
<明和五年(1768)の百姓一揆>
亀山領内でも百姓一揆がありました。☆なぜ一揆が起こったのか?
・甲州国(山梨県)での河川改修工事・守山宿(滋賀県守山市)での朝鮮通信使の接待などのために亀山藩の財政が厳しくなった。そこで、今まで年貢のかからなかった田畑に年貢をかけたり、商人が村の土地に新田を作って年貢をかけたりすることを、商人が代官に賄賂とともに提案して年貢が増えるようにした。農民にとっては生活が苦しくなったので一揆を起こすことになった。
「飢饉が原因で一揆を起こしたのではないんだ。」☆どんなことを要求したのか?
・藩の役人や大庄屋 、改庄屋 をやめさせることや長年荒廃していたり洪水などにより耕作不能になったりした田畑、茶や桑にかかる年貢を取り立てないこと、年貢は米の他に金納も認めることなどを要求した。
「お金で年貢を納めることもあったんだ。」☆どのように一揆は進んだのか
・9/8 百姓一揆を呼びかける廻状(今の回覧板のようなもの)がまわった。
・9/13 夜10時頃、広瀬野に村人が集合(83ヶ村、約6800人)した。
・9/14 午前2時頃、一揆の集団がスタートし、所々で打ち壊しを行った。
・9/15 阿野田川原にいる百姓たちの所へ城からの使者が来た。
「でころぼ坂へ願いを出すように。」
15時頃、百姓たちは広瀬野へ引き返した。
☆一揆の結果
・9/16 代官・大庄屋・改庄屋など
百姓の代表も処罰された。
「亀山では一揆が成功したんだ。」「でも、一揆は命がけなんだね。」
<明和五年(1768)の百姓一揆>
亀山の歴史について詳しく学習した子どもたちは、 「亀山で起こったことは、教科書と同じことも違うこともあった。」 「教科書に載っていない知らないことを勉強しておもしろかった。」 「わかりやすく説明してもらいました。」 「今まで亀山の歴史を調べていなかったけれど、亀山の歴史がわかりおもしろかった。」 などの感想を発表してくれました。授業後も実物資料をそばで触れて、見て、読んで興味を示していました。 |
<くわしく一揆のことがわかりました> |
<読める字があるよ> |
<ここに明和の一揆について書かれているよ> |
これからも歴史に興味を持ち、歴史の流れの中で亀山ではどのようなことがあったのか関連させながら学習を進めていけるといいなと思います。
提供資料(亀山市歴史博物館)
文政 二年(1819)4月に作られた「御家中畑地字番付帳 」文久 三年(1863)に作られた「宿内軒別書上帳 」- 文化九年4月に作られた「
奉伺候存寄書之写 」- 「
明和五戊子歳騒動実記 」- 蛇の目傘