亀山市歴史博物館
亀山の
歴史の中の女性達


プロローグ
江戸時代の女性
1、女子の教育
2、女性の就職
〜工女として製糸工場へ〜
3、女性の社会活動
〜婦人会〜

2、女性の就職〜工女として製糸工場へ〜

 大正時代の終わり頃より社会に出て働く「職業婦人」と呼ばれる女性が現れ、このような職業婦人の活躍は、それまで家庭の中にいた女性(「家庭婦人」)の社会進出のきっかけの1つになりました。「職業婦人」に先駆けて既に明治20年(1887)頃から、学校を卒業して工場で働く女子が増え始めました。とくに亀山では養蚕が盛んであったため、製糸工場に就職する女子も多くいました。当時、工場で働く労働者のことを職工と呼び、なかでも女性の職工は当初は工女、次第に女工と呼ばれました。
 このコーナーでは、市域にあった製糸工場 と工女として働く女性についてご紹介します。


@−1 養蚕の町と製糸工場

 明治から昭和初期にかけて、この地域では、農家の副業として、また現金収入の手段として、養蚕がさかんに行われました。明治20年(1887)4月21日には、亀山養蚕伝習場が設置され、同年6月に製糸業の免許を受けた田中音吉が西町で亀山製絲株式会社の前身である田中製絲場を正式に開業したのを皮切りに、この頃より多くの製糸工場が建てられました。
 また、三重県は、明治26年(1893)4月に、蚕糸業取締規則を布達し、これにより各郡に蚕糸組合がつくられました。この地域では、亀山町・神辺村・関町・加太村・坂下村・白川村・野登村・川崎村・井田川村・槇尾村・昼生村に組合がつくられました。
 このように、この地域では近代産業の1つとして製糸業が発達したため、「養蚕の町」とか「製糸の町」と呼ばれるようになりました。


[図1] 市域における養蚕農家戸数(昭和元年〜昭和16年)


[20]
 地図の「亀山町」の横に「生糸」と書かれています。この地域の製糸業が盛んだったことが窺えます。
[20]:観光と産業の三重(小亀家資料61-55-1)

[表1] 市域にあった製糸工場
創業 工場名 初代社長 住所

20年6月 田中製絲場 田中音吉 亀山町大字西町
23年6月 佐久間製糸場 川崎村
24年8月 菊田製糸場 菊田忠次 亀山町大字北山
25年6月 葛西製糸場 川崎村
25年6月 福島製糸場 福島卯左衛門 坂下村大字沓
26年6月 市川製糸場 市川新吉 亀山町大字西町
26年7月 丸ヲ製糸場 落合玉之助 明大字萩原
27年4月 村田製糸場 村田新三郎 関町大字新町(新所)
28年1月 中村製糸場 中村安五郎 関町大字新町(新所)
28年月 寺田製糸場 寺田治兵 亀山町大字東町
29年6月 大辻製糸場 大辻藤七 亀山町大字若山
29年6月 尾崎製糸場 尾崎音吉 関町大字新町(新所)
30年6月 田中製糸場 田中菊松 坂下村大字沓掛
32年5月 芳川製糸場 亀山町
33年6月 小林作造 小林作造 野登村
33年6月 川戸五市 川戸五市 野登村
40年6月 駒田製糸分工場 亀山町
44年5月 木全製糸場 木全鎌吉 亀山町
44年7月 亀山製絲(株) 橋本市太郎 亀山町

10年2月 (株)石川組中村製糸所 中村安五郎 関町新所
10年4月 丸一玉糸製糸場 市川駒次郎 亀山町
13年6月 鐘渕紡績(株)亀山製糸所 武藤山治 亀山町
15年6月 森製糸場 豊田実 亀山町

5年10月 近藤製糸場 近藤安五郎 亀山町
7年 郡是製糸(株)乾繭場 関町新所
典拠:『三重県統計書』

[21]
 明治5年(1872)秋に発行された養蚕の手引き。蚕を育てるところから、製糸までを絵と文字で紹介しています。
[21]:養蚕手引き草(加藤家文書3-0-71)

[22]
 蚕を育ててできた繭。蚕は蛹になるときに糸を吐いて繭をつくります。この繭を湯で煮ると、糸どうしをくっつけている膠質のセリシンが剥がれ、糸がほぐれやすくなります。
[22]:繭(館蔵資料)

[23]
 この座繰器は、手回し式の繭から生糸を紡ぐ器具で、糸繰器ともいいます。
[23]:手回し式座繰器(館蔵佐川家資料)

[24]
 手廻し式の座繰り器が進化して、足でペダルを踏むことでかせがまわり生糸を紡ぐことができます。


[24]:足踏み式座繰器(館蔵前田家資料)

[25]
 これは、製糸工程の中で、繰糸を行う時に使われた繰糸鍋そうしなべと呼ばれる道具です。熱湯を満たしたこの鍋に、煮た繭を浮かべ糸を引き出します。この鍋は亀山製絲(株)で使われていたもので、従業員だった方が不用になったものをもらって植木鉢として使っていました。なので、中央に穴があいています。
[25]:繰糸鍋(館蔵山鹿家資料)
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@−2 この地域における明治期の3大製糸工場

 明治期に開業した工場の中で、規模が大きい工場に田中製絲場・菊田製糸場・中村製糸場があり、多くの工女が働いていました。


[表2] 3大製糸場の各工女数
田中製絲場 菊田製糸場 中村製糸場
明治26年 61 65 (未記載)
明治29年 79 65 25
明治30年 79 65 31
明治31年 85 75 31
明治32年 85 75 86
明治34年 78 78 88
明治35年 78(2) 78(2) 106(5)
明治36年 79(2) 85(3) 108(5)
※( )は労働者数として記載されている数
典拠:『三重県統計書』


【田中製絲場】
 田中製絲場は、蒸汽缶じょうきがまを備えた器械製糸工場で、田中音吉によって明治20年(1887)6月に西町で開業しました。田中音吉は、明治13年(1880)頃には既に製糸業を起し、明治25年(1892)時点で40余名の工女が働いていました。3年後の明治28年(1895)6月には、工場増築のために、新たな工女を募集しています(「伊勢新聞」明治28年6月8日付)。その後、事業拡充に伴い、明治44年(1911)7月に、新たに亀山製絲株式会社として現在の場所で開業しました。


[26]
 田中製糸場のようすを写した写真です。工女が一列に並んで繰糸の作業をおこなっています。
[26]:田中製絲場(写真)(館蔵加藤(五)家資料1-40)

[27]
 この写真は、亀山でいち早く田中製絲場を起した田中音吉の銅像の写真です。
[27]:田中音吉翁銅像(写真)(館蔵加藤(五)家資料1-40)

[28]
[28]
 これは、生糸を出荷するときに付けた商品ラベルです。
[28]:田中製絲場の商品ラベル(2枚)(館蔵資料)

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【菊田製糸場】
 菊田製糸場は、菊田忠次(※)によって、座繰製糸工場を明治24年(1891)8月に北山で開業しました。その後、蒸汽缶じょうきがま50人取の機械を備えた器械製糸工場を新築し、明治26年(1893)5月5日に開場式を執行しました。この時、新たに20名の工女を募集しています。菊田製糸場がいつまで操業していたかは分かっていませんが、『全国製糸工場調査表』に明治38年(1905)までは社名があることから、この頃までは操業していたことがわかります。
※伊勢新聞には、「菊田忠宣」と掲載。


【中村製糸場】
 中村製糸場は、明治28年(1895)1月に、田中製絲場や菊田製糸場より遅れて関町新所のあいづ屋の裏で座繰製糸を始めました。創業者は、中村安五郎です。
 中村製糸場は、大正8年(1919)に埼玉県の石川組製糸所と合併し、「石川組中村製糸所」と名称変更しました。石川組中村製糸所は、関町の養蚕農家2,000軒と特約して繭を買い入れ、最盛期には従業員700名を抱えていました。
 しかしながら、石川組中村製糸所は、大正12年(1923)の関東大震災により、横浜の倉庫に保管されていた生糸1年分が焼失し、大損害を蒙ったことにより経営に行き詰まりました。その後、「合資会社伊勢石川組」として再建をはかりましたが難しく、昭和6年(1931)に休業しました。休業後は、関町の有志によって、共立製糸株式会社を設立し事業を継承しようとする動きもありましたが、結果的に、翌昭和7年(1932)に、郡是ぐんぜ株式会社が買収し、数年間だけ関乾繭場として操業した後、昭和15年(1940)頃に廃業しました。


[29]
 『鈴鹿関町史』186〜187頁に掲載されている、石川組中村製糸所の写真と見取図です。
[29]:石川組中村製糸所(写真・見取図)

[30]
 この趣意書によって、石川組中村製糸所の休業後は、関町の有志によって、共立製糸株式会社を設立し事業を継承しようとした動きがあったことがうかがえます。
[30]:趣意書(小亀家資料100-99-42)

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A−1 製糸工場へ就職した女性

 女工といえば、大正末年頃を描いた『女工哀史』や『あゝ野麦峠』が有名であることから、「女工=劣悪な環境で働かされた女性労働者」というイメージがあります。しかし、中村製糸で働いていた女性の話(『鈴鹿関町史』下巻)によれば、この地域の工女は、少なくとも明治末年頃以降については、仕事は大変であっても、劣悪な環境で働かされたという事実はなかったようです。亀山製絲(株)の前身である田中製絲場では、創業者田中音吉の妻となった「はる」が官営富岡製糸場の伝習生出身であったこともあり、工女(女子工員)の待遇には配慮がなされていたと伝えられています。
 初期の製糸工場では、繭から糸を引き出し数本を引きそろえて1本の糸にする繰糸と呼ばれる過程で、手先が器用な女性が重宝されたことから、多くの若い女子が採用されました。製糸工場の職工は、どの工場でも工女が全体の9割以上を占め、男性は数えるほどしかおらず、この地域では、工女は大切にされ、働きやすい環境が整えられていました。(工女は次第に親しみを込めて女工さんと呼ばれるようになりました。)
 工女の数は、『全国製糸工場調査表』によれば、製糸工場の数が減少しているのに対し、大正4年(1915)から11年(1922年)の間に急激に増え、倍以上になっています。なかでも、(株)石川組中村製絲所と亀山製絲(株)に二極化していたことがわかります。なお、工女数と年間生産高は比例しており、工女が増えている年は年間生産高も増えています。


[図2] 市域ににあった製糸工場の工女数と年間生産高の合計
(明治29年〜昭和6年5月)


[31]
 亀山製絲(株)の繰糸作業の風景です。
[31]:亀山製絲(株)(写真)(館蔵資料)

[32]
[32]
 生糸を出荷する時に商品につけたラベルですが、田中製絲場の頃のものより1回り小さくなっています。
[32]:亀山製絲(株)の商品ラベル(2枚)(館蔵資料)

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A−2 工女の出身地

 この地域の製糸工場で働く工女達は、県内だけでなく県外からも多く来ていたことがわかっています。関町新所の石川組中村製糸所では、長野県や山梨県から来ている人も多かったようです(『鈴鹿関町史』)。
 亀山製絲(株)で、工女の出身地を調べていただいたところ、古くはわかりませんでしたが、昭和47年(1972)・昭和56年(1981)・昭和58年(1983)に勤めていた人の出身地がわかりました(表「亀山製絲(株)本工場の工女の出身地」)。これによれば、亀山製絲(株)では、県内では亀山市内出身者が最も多いですが、県外では、近隣県だけでなく、遠いところでは九州や関東・東北から働きに来ていたことがわかります。


[表3] 亀山製絲(株)本工場の工女の出身地
昭和47年 昭和56年 昭和58年
寄宿舎 通勤 寄宿舎 通勤 寄宿舎 通勤

亀山 33 6 4 57 2 47
鈴鹿 19 1 3 9 4 9
安芸 10 1 2
12 2 2
桑名 1
四日市 2
北牟婁 6
多気 6 1 1
一志 4
飯南 6
松阪 4
度会 23 9 4
名賀 2
尾鷲 4
志摩 1 4 1
熊野 3 2
小計 136 7 25 67 12 60

滋賀 5
奈良 13 6
東京 1
群馬 5 2
山形 9 11 7
長崎 1 2 2
大分 1
宮崎 1
小計 22 7 29 0 15 0
合計 165 121 87

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A−3 工女の就業時間と寄宿舎生活

 工女の就業時間について、昭和50〜60年(1975〜1985)頃の亀山製絲(株)の場合、工女の拘束時間は8時間30分で、そのうち食事休憩が35分とそれ以外での休憩が10分間割り当てられていました。実質勤務時間は7時間45分で、5時〜13時30分と13時30分〜22時までの2交代制で働いていました。なお、就業時間については、時代によっても違っていたようで、早番・定時・后番の3交代制の時もあったようです。
 また、工女は寄宿舎で生活し、亀山製絲(株)の工場内には、若草寮・白菊寮・紅寮(それぞれ2階建)と学生寮(3階建)があり、規則に従って共同生活をしていました。『寮生活のしおり』によれば、遵守事項として、それぞれの出勤時間に合わせて、起床時間・消灯時間・門限が決められており、また食事・入浴など、遵守すべき事柄が細かく決められていました。
 また、寄宿舎集団生活の秩序の維持と居住者の品性の陶冶、文化教養の向上及び健康の増進を図ることを目的とした、女子寄宿舎自治会もつくらました。


[33]トレース図(PDF)
[33]
 敷地の西側に「寄宿舎」と書かれた女子寮があります。このうち、くれない寮の2階は尚志しょうし学園という教室になっていました。
[33]:亀山製絲株式会社建物配置図(昭和27年10月)(亀山製絲株式会社所蔵資料)

[34]トレース図(PDF)
[34]
 昭和27年10月の建物配置図と比較すると、若干内部が変わっています。3棟の2階建て寄宿舎(女子寮)の他に、3階建の寄宿舎ができ、ここでは、飯野高校昼間2部制に通っていた工女が生活していました。
[34]:亀山製絲株式会社本工場平面図(昭和60年5月)(亀山製絲株式会社所蔵資料)

[35]
 『寮生活のしおり』に書かれている内容ついては、どうぞ写真をご覧ください。(会期中は企画展室において複製の閲覧が可能です。)
[35]:『寮生活のしおり』(亀山製絲株式会社所蔵資料)

[36]
 『女子寄宿舎規約』に書かれている内容ついては、どうぞ写真をご覧ください。(会期中は企画展室において複製の閲覧が可能です。)
[36]:『女子寄宿舎規約』(亀山製絲株式会社所蔵資料)

[37]
 『女子寄宿舎自治会規約』に書かれている内容ついては、どうぞ写真をご覧ください。(会期中に限り複製の閲覧可。)
[37]:『女子寄宿舎自治会規約』(亀山製絲株式会社所蔵資料)

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B−1 工場の女子教育

 女工の多くは、義務教育を終えてすぐに工場へ就職しました。このような、高等教育を受けていない女工に対し、この地域では、仕事の合間に教育が受けられるように配慮がされていました。例えば、製糸工場ではありませんが、戦前の県内でも、大正7年(1918)から16年かけて完成した東洋紡績(株)富田工場では、工場内に女子青年学校が設けられ、余暇時間を利用して、普通学科の他、裁縫・家事・割烹・作法・生花・音楽・手芸を学ぶことができました。


[38]
 東洋紡(株)富田工場の就業案内の中には、教育優遇に関する内容が記載されています。
[38]:東洋紡(株)富田工場「就業案内」(小亀家資料61-106)

[39]
 東洋紡(株)富田工場に女子青年学校があったことがわかる資料です。
[39]:東洋紡(株)富田工場「女子教育の体系」
(小亀家資料61-12)

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B−2 亀山製絲(株)の女子教育

 昭和49年(1974)、北勢南部地区の繊維産業に従事する勤労青少年の修学機会の拡充を図るため、東洋紡績(楠工場・鈴鹿工場)・大東紡織・敷島カンバス・鐘紡繊維・東亜紡織・亀山製絲の6社(7事業所)は、三重県へ陳情し、県の理解と鈴鹿市の協力により県立飯野高等学校定時制を開校することができました。飯野高校定時制は、工場の交代勤務に合わせて昼間2部制(授業時間は4時間)になっていました。亀山製絲(株)からも、入学を希望する工女を学生専用バスで送迎していました。しかし、亀山製絲(株)では、農家の繭生産量が減り2交代制ができなくなると、飯野高校定時制から亀山高校定時制へ転校して通学するようになりました。
 また、亀山製絲(株)では、紅寮の2階を教室棟として、教師を雇って「尚志しょうし学園」を開校していました。尚志学園では、和裁・洋裁・茶道・華道・編み物などを学ぶことができ、飯野高校へ通わなかった寮生や、飯野高校を卒業した寮生が学びました。昭和10年(1935)頃や昭和40年(1965)頃には、自分で花嫁衣装を仕立てた寮生もいたということです。


[40]
 亀山製絲(株)では、飯野高校へ通う工女のために、専用のバスを用意して送迎していました。
[40]:亀山製絲(株)の飯野高校送迎専用バス(写真)
(亀山製絲株式会社所蔵資料)

[41]
 これは、尚志しょうし学園での教室のようすを写した写真です。
[41]:尚志学園(写真)(亀山製絲株式会社所蔵資料)

[42]
 これは、求人要項の裏面に掲載された尚志しょうし学園を紹介したページです。
[42]:尚志学園(写真)(亀山製絲株式会社所蔵資料)

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